先進急性期医療センター ホーム > 救急医の横顔

救急医の横顔

昨年出産した水柿明日美先生は、この4月に現職復帰したばかりだ。育児をしながら救急医の業務をこなすママさんでもある。しばらく当直業務は免除されているものの、救急医としてやっていけるのかという不安もちらほら。医者になりたての頃は、特に救急医になろうと思ったこともなかったという水柿先生だが、研修中に出会ったある患者の治療で救急への興味を抱いた。それは...。

熱傷患者との出会いで救急に興味を抱いた研修時代

水柿先生は学生時代、救急の実習を受講した記憶もなく(受講していたのかもしれないが...)「全く救急を考えていなかった」と話す。ところが、初期臨床研修の間に麻酔と救急が必須となった。1年目の研修先は北大病院で、救急科に配属されたのは初期臨床研修に入って半年後のことだった。
「義務だったので取らなくてはならなくて」と水柿先生。この「義務」という話し方から、水柿先生が気乗りしていなかったことをうかがわせる。言葉尻を捉えているわけではない。
いざ、救急の研修を受けてみると自分が思っていた以上に救急に全く向かない世界ではないことに気がついたという。水柿先生は「救急では研修医にも手技的なことも含めて色々なことを勉強させてくれた。必死でやっていくうちに、結構、毎日が充実していたことに気が付いた」と思い返す。救急研修を受ける時期が良かったのかもしれない。初期臨床研修が始まって内科を回った6ヶ月後。水柿先生はその時の自分の心の中を口にする。「研修に入ってすぐに救急を受けていたら多分、怯えたままで何もできず、恐怖心だけで終わっていたかもしれないです」と。
最初は辛かったというが、徐々に慣れて面白くなってきたため2ヶ月の予定だった救急研修をさらに1ヶ月伸ばすことに決めたという。

救急研修を延ばすほど面白さを感じるきっかけは、ある熱傷患者との出会いだった。救急研修が始まって2週間くらいの頃、10代の患者が首から下の広範囲熱傷で救急搬送されてきた。連日ICUでの治療が続いた。
水柿先生も含めて研修医はこまめにICU患者の状態をチェックし、治療を続ける機会が多い。今のように、『研修医は土日は休むように』とうるさく言われることもなかったために、朝から晩までICUに入り浸り、熱傷患者の様子を見守った。
熱傷患者は感染症にかかることが多く、感染してしまった場合は汚染した皮膚をどんどんと剥いでいかなければならない。ある日の夕方、感染が全身に周り、敗血症を来して急激に容態が悪くなった。夜半には人工呼吸器をつけなければならない状態まで陥った。
そんな時に当時助教(現在・講師)の早川峰司先生がふらっとICUに入ってきた。「早川先生は、その日、当直じゃなかったはずだけど」と水柿先生は前置きして、話を続ける。早川先生は「これ、やんなきゃダメだね~」と言い、熱傷患者の皮膚を夜中にもかかわらずその場で切除し始めたのだった。研修医だった水柿先生は「今ここでやるのか…」とただただ早川先生の治療を見守るしか術はなかった。
その治療の甲斐もあり、患者の容態はなんとか持ち直したという。最もその後も悪くなったり良くなったりの一進一退を繰り返したが、最後は歩いて帰宅できるまでに快復したのだった。水柿先生は「患者さんが若かったということもあると思うんですよね。例えばご高齢の患者さんが同じく首から下の全部をやけどしていたら、正直いって助からなかったかもしれない。本人の生命力をちょっと助けただけなのかもしれないけど、その患者さんが良くなって行ったのを見て『なんかすごい世界があるんだな、すごい世界というかすごい人たち(救急医)がいるんだな』と思った。」というのだ。

研修を終えてふるさと山形で救急医に

学生の頃、水柿先生は消化器内科医になりたいと思っていた。2年目の初期臨床研修先も内科系に強いとされる札幌北楡病院を選んでいた。研修が始まってからは、内科研修をした血液内科も呼吸器内科もどれも魅力を感じたという。
救急の面白さを知ってしまっただけに水柿先生は「進むべき道に迷いました」と話す。血液内科を目指すべきか、救急医を目指すべきか。
でも救急が捨てきれなかったという。耳に残る北大ICUのアラーム音。ボーンボーンというその音が懐かしく感じ、「あの(救急の)環境にまた戻りたいな」と時折思ったりもした。
すごく悩みながらも救急に絞りきれない水柿先生にある事情が襲い掛かった。家族が癌になってしまったのだった。手術は避けて通れず、その後の化学療法も控えている。水柿先生が医者を志した理由には、家族や友達など身近な人に何かがあった時に心強い存在になりたいという思いがあった。水柿先生は「何ができるというわけではないんですけどね、家族がそういう時にはなるべく近くにいたいな、と。」と、初期臨床研修を終えて北海道に残らず実家にほど近い山形市内の病院で勤務することを決めた。
医者になって3年目。血液内科をやって救急に進むという道よりも先に救急をやってから血液内科を目指す方が良策と思った水柿先生。山形で救急が有名な病院を探ると山形県立中央病院(山形市)がヒットした。「後期研修をさせてもらえないでしょうか?」と直接相談して同病院救急科に入ることを決めたのだという。
水柿先生はここで、救急医療のイロハを叩き込んでもらったという。「とてもいい病院で、救急医も魅力的な人たちばかりでした」。山形でDMAT隊員になるための研修も受けた。「普通3年目(の医者)はなかなかなれないんですけどね、科長の森野先生の力もありDMAT隊員にさせてもらえた」。2011年の東日本大震災の時には、気仙沼の災害現場で治療にもあたった。
「山形県立中央病院では、本当に手取り足取り教えてもらい、毎日楽しく充実しているなあ」と思った水柿先生は、4年目以降も救急医として歩み出すことに決めたのだった。水柿先生は話しながら何度も「楽しい」という言葉遣いを非常に気にする場面があった。重篤な救急患者を診ることが楽しいと表現をすることは、患者を冒涜しているのかもしれない、あるいは救急患者の治療を面白がっていると捉えられかねないという配慮からなのかもしれないが、それは水柿先生の優しさの一面ともいえる。
それはさておき、水柿先生は楽しかったという山形県立中央病院を一年で切り上げて再び母校でもある北大病院の救急に戻ることとなった。山形での一年間、水柿先生が一番学んだのはICUでの患者の管理というよりも、初療、初期対応だったという。「(救急医療は)スピーディーに同時にいろんなことをこなしていかなくてはいけないので、トレーニングすることでちょっとずつ(対応の)時間が短くなっていきました。目に見えて自分でもわかりました。やりがいがあるなと思っていました。」と水柿先生。
そしてこう口にする。「今では救急が好きです」。

北大、そして日本医科大へ。ドラマの医事指導も経験

北大に戻ってきた水柿先生は急展開で結婚することになった。「結婚するつもりで札幌に戻ってきた訳ではなかったのですが」と照れながら話を続ける。トントン拍子で結婚の話に展開。結婚相手は翌春から東京で2年ほど勤務することも決まっていたという。「それで私も東京について行くことにしました」と水柿先生は話す。
4年目の救急医として忙しくしていたために、東京での病院探しはままならなかった。そのために北大救急の先輩医師のツテを頼りに、日本医科大付属病院高度救命救急センターに勤めることに決めた。同センターは北大の救急と違い、外科が主導。3つの班に専門が分かれていて、開頭手術、開腹手術、整形手術とこなす。ICUを含めた全身管理を得意とする北大救急とは勝手が違いすぎていた。
日医の救急医は自分たちで手術が必要だと判断したら自分たちで執刀する。緊急性が高い場合は手術室に運ぶことなく、初療室で開頭したり開腹したりするのだ。他科に相談する必要もない。調整の手間もいらない。「だから手術に踏み切るまではとっても早いのです」と水柿先生。そして話を続ける。「だから、そこで救急医をしている人たちはその迅速な対応力を魅力だと感じているだろうし、自分たちでできるという自負もあると思います」。水柿先生も必要に迫られ「こちら(北大)ではやらない手技も経験して大変勉強になりました」。
そう言いながらも、水柿先生は北大救急の良さを改めて実感することもあったという。日医は初期対応に比重を置いているが、北大の場合は救急患者を受け入れ必要な措置を施した後の、ICUでの管理が非常に細やかであるという。それはシステムの違いからくる甲乙つけがたい話でもある。ただしどちらも果たしている役割は「救命」には違いない。
日医にいたからこそ経験できたこともあった。それはテレビドラマでの医事指導。2013年10月にテレビ朝日で放映された「事件救命医〜IMATの奇跡〜」と、同年フジテレビで放映された連続ドラマ「救命病棟24時(第5シリーズ)」に協力したという。「東京でしかできない面白い経験でしたね」と水柿先生は笑みを漏らす。
特に難しいことはなかったという。ドラマの撮影現場で待機して役者から「呼吸器の設定の仕方はどうするのですか?」とか「治療の時にはどういった手つきですればいいのですか?」とか、ちょっとした技術的な疑問が生じた時に実務的なアドバイスをする。「カルテが映る場面では、カルテ記載をすることもありました。あとは、本当に細かいところですよね。医療ドラマにはありがちですが、普通の視聴者が気がつかなくても、医療関係者が見たら『これはおかしいだろ』という場面をなるべく少なく済むようにしていました」。
丸一日拘束されることもあれば、連続しての泊りがけで静岡ロケの現場に立ち会ったこともあったという。日医から「(医事指導だけど)どう?」と聞かれたことがきっかけだった。「(役者さんらから)聞かれても自分じゃ分からないかもしれないと最初は思ったが、せっかくの機会。『行きます』と答えたことで、何回か撮影に立ち会うことができました」と水柿先生は楽しかった思い出を語った。

ただ今、子育て奮闘中。救急医をやめようかと思ったことも

水柿先生は昨年出産し、一年間の育児休暇を終えてこの春現場に復帰したばかりだ。
片道30分ほどの保育園に送り届けて出勤しているママさんドクター。医局の配慮もあり、子育てがひと段落するまでは日勤のみのローテーションにしてもらい、当直を免除してもらっているという。昼間は救急医の顔だが、仕事を終えるとママの顔となり保育園に子供を迎えにいく日々を過ごす。
インタビューに応じていただいたのが復帰10日ほどしか経っていなかったために、救急医と子育ての差し迫った苦労話を聞くことはできなかったが、水柿先生の口からは何度も北大救急の医局への感謝の言葉がつい出て来る。その上で仕事と育児のジレンマにさいなまれている本音も。
それは妊娠中も同じだったという。できることが限られ、重いものは持てない、放射線を浴びる仕事もできない。水柿先生は「できないことがすごく多くなります。でもそこを無理してお腹の子に何かあるかと思うと...。ジレンマですよね。やりたいけど、できない。働き方に悩みましたね」と話す。
札幌医科大学の子育て中の女性救急医に相談を持ちかけたこともあった。「その先生に聞いてみたら、同じような悩みを抱えていて。正解はなくて、結局、みんな周りの人に助けてもらいながらなんとか手探りでやっているんだなということがわかりました」切迫流産の危険など出産にまつわる困難はあったが無事に出産。そして育休も終わりに近づいた時に、水柿先生に救急医を辞めようという思いがもたげてきた。少し自信なさげに水柿先生は心情を口にする。「子供をそろそろ保育園に預けなくてはいけないと思った時です。仕事って代わりがいるじゃないですか、いくらでも。他の先生方と違って、特に自分じゃないとできないことってないし。でも、この子の母親は私しかいない。子供を人に預けてまで自分が復帰すべきなのかなとちょっと思いました」
話を挟むが、水柿先生はインタビューを受けるのが非常に嫌だったそうだ。水柿先生の言葉を借りると「私、(救急医療の)強みがないんですよ」。先輩医師の引き出しの多さ、専門性の高さを自分と比較しての言葉を受けてのものである。

水柿先生の写真

水柿先生は話を続けた。「だけど私は、浪人してまでも大学を出させてもらってこの仕事に就いた。それを簡単に辞めるのもなあ...と思って。でも実際に子供が生まれると考え方が変わるものですね。生まれる前までは半年経ったらさっさと預けて復帰しよう!と考えていたんです、なんか自由になれる気がして。それなのにいざ目の前に子供がいるとそちらを優先したくなっちゃうというか、自由なんかなくても子供と一緒にいたくなってしまう。本当に悩みました」と水柿先生は笑みを漏らす。
仕事との両立のため、起きている子供と家で過ごす時間は毎日3時間ほどしか取れないが、いずれ子育てと仕事の両立に慣れてきたら「救急を辞めなくてよかったと思える日が来るんじゃないかと思う」と水柿先生はこれからのことを楽しみにしている。

救急は自分が生き生きとしていられる仕事

水柿先生にとって救急とは、という謎かけのような質問をすると、長い思いを巡らせた後で次のような答えが返ってきた。
「考えたことなかったなあ。自分が活き活きしていられる仕事ですかね。うん。そうですね。なんか楽しいんですよね。特に何がというわけではないんですけど、医局で働いているのが楽しい。だから子供を預けてでも帰ってこようと思えました。」と水柿先生は明るい声を響かせた。

水柿先生の写真

そして救急医を目指す人にこう話しかけてインタビューを結んだ。
「救急はキツイとか、当直が多くなかなか帰れないとか、とにかく私生活を犠牲にしているというイメージがあるかもしれません。でも救急医も人間らしく日常生活を大切にできる時代になってきていると思います。若いころの修練はもちろん必要ですが、それはどんな仕事でもいえることで、救急医療の仕事も男女関係なくワークライフバランスを大切にすることができる仕事であると思います。今後は自分もそういう環境作りをしていきたいと思っているので、救急医療・集中治療に興味がある人は、将来のことを心配して躊躇せずに、やりたいことのできる道に進んで欲しいです。」