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救急医の横顔

「救急医の横顔」第2回目は澤村淳先生にお願いしました。みなさま、じっくりとお読みください。

救急医はより冷静な態度が肝心

澤村先生の写真

医師全般に言えることかもしれないが、特に、救急医は沈着冷静だ。意識がなかったり、心停止していたりする患者が運ばれてきても、救急医は容態とモニターに映し出される様々な数値を見つめながら黙々と「診断」と「治療」を平行して行っていく。米国のテレビドラマ「ER」や日本の「救命病棟24時」などでは医師が一刻一秒を争うために声を荒げるシーンがあるが、現実の世界ではあまりない。朝のカンファレンスでも同様だ。研修医や担当医が治療方針を確認して行く際にも静かに耳を傾け、時折、疑問点を質す。
現在、研修医の指導医でもある准教授の澤村淳は「もっとシビアな現場では大声を出したりすることもありますが、普段はおとなげないので、(そういうことは)しません」と話す。それは医者になって4年目のこと。赴任先の網走脳神経外科で「職員を大事にしなければならない」「現場で声を荒げるようなことをしてはいけない」と、諭されたことがきっかけとなっている。医者の一挙手一投足は一つひとつ注目を浴びる。冷静に務めるように自分を戒める大事さを学んだという。澤村は「指導頂いた先生は、非常に良い先生でもあったので、今でも印象に残っています」と述懐する。

始まりは脳外科医だった

澤村は北海道十勝地方の池田町出身。帯広の高校を卒業後、一年の浪人期間を経て旭川医大に入学した。「脳の研究は、ブラックボックスみたいに分からない所が多かったのと、厳しさで知られた米増祐吉教授のもとで鍛え上げてもらおうというサディスティックな気持ちがあったので」と同大学脳神経外科への入局を決めた。
脳外科の医局には12年ほど在籍し、派遣先の旭川赤十字病院では「脳血管に関わる手術で日本一」「匠の手を持つ脳外科医」と呼ばれる脳外科医の下で1年半ほど研鑽を積んだ。ほれぼれする手術の技が繰り広げられ、見ていて楽しかったが、逆に「神」の領域にも近い凄技だったため「自分には無理だ」と打ちひしがれる思いもあったという。
その旭川赤十字では、月に1回の当直業務があった。道北の中核都市の基幹病院でもあるため、一晩で多い時に100人ほどの患者が来て、その対応に当たらなければならなかったため「本当に眠られなかった」と澤村は回想する。そして、しばらく間を置いてから、「でも、いろんな症例を見ることができて勉強になりました。」と言葉を紡いだ。
もちろん辛い思い出もある。医者になって7年目の出来事である。いつものように当直についていたある夜。突然、意識がなくなった妊婦が救急搬送されてきた。澤村は、緊急頭部CTを施行した。CTを診ると脳内で出血しており、脳ヘルニアの状態に陥っていた。このままでは、いくばくも無いような状態だった。しかも臨月、妊娠9ヶ月だった。一瞬、澤村は思案した。「このままだったら子供も死んでしまう」。急遽、婦人科の医師を呼んで救急外来で帝王切開してもらい、子供の命は救うことができた。しかし、母親はその2日後に静かに息を引き取った。普通の高血圧性の脳出血ではなく、動静脈奇形が基礎にある脳出血だった疑いもあったというが、MRIを撮る余裕がその時にはなかった。余裕だけではない。澤村は、何も施せなく、ただただ見守ることしかできなかった自分に対してやるせなかった。「最善を尽くして、それでも助けられなかったらまだしも、何もしてあげられないことほど辛いものはない」と、澤村は思い出しながら声を絞った。
「それに、赤ちゃん。助けられたんだけど、その後のことを考えると本当にこれでよかったのかな、と、今でも考えてしまいます。」

ドラマの影響も?「救急」への道を後押し

脳外科は緊急性を要して運ばれてくる患者が多いため、救急と似ている分野でもある。そのような環境の中で、澤村は年を重ねるに従って救急医学に興味を抱くようになっていった。脳外科医としての限界を感じ始めていたのも確かだが、同時に救急専門医の資格を取ろうと密かに決意もしたからだった。しかし、救急医を志すというきっかけは、他でもない。松嶋菜々子主演の連続ドラマ「救命病棟24時」だったという、意外な答えを澤村は口にした。
「自分も救急をやってみたいなと思っていて、興味本位でドラマをみていたんですけどね、漠然と。毎回見ていた訳ではないのですが、そのドラマで救急専門医があることに気がついたんですよ」
おりしもその当時、ちょうど北大医学部で救急医学分野が開講したばかりだった。
澤村は、旭川赤十字病院の救命センターや札幌東徳州会病院での症例を100例集め、なんとか試験に臨むことができた。3年間の救急専従の医療経験という条件があったが、澤村にはそれがネックとなった。専門は脳外科だったためだ。半ば無理かもと思いながら症例をかき集めて2001年にようやく受験することができた。が、その年は失敗。
「翌年、再受験して受かったんですけど、結構、専従歴とかがポイントになるんですよね。なので、救命センター専従で勤務していない人にとっては、きつい試験だった」と澤村は振り返る。

北大への憧れとコンプレックス

専門医となったことで北大の救急科の門を叩いた。2003年4月のことだ。知り合いの先輩医師がいたことに加え、北大にも憧れていたからだ。
「何だかんだと言っても北大は一流のブランド。そこで働けることはやはりうれしいことです」と澤村は照れを隠す。「コンプレックスでもあり、ひがみ根性」と自らそのことを認めながら、「それがあるからこそ、何くそっ、と頑張ってこられるのですよ」と穏やかな表情で語る。
その「成果」は間もなく実となった。北大先進急性期医療センターの副部長を拝命し、全国にわずか600人ほどしかいない日本救急医学会救急指導医の資格を2010年に取得。さらに、2012年には准教授へと昇進した。
その分、研修医へ担当教官としての役割も重要になってきている。気遣う部分も多い。
澤村は「なるべく救急に興味を持ってもらえるような『手技』を多くやってもらえるように気を使っています。例えば中心静脈ラインをいれるのを研修医と一緒に、手取り足取りでやってもらえるようにはしているんですけどね。当然、難しいことはできないのは当たり前なので、基本的なことからやってもらっています。これができたら、次。さらに次とやってもらうように、なるべくチャンスを与えるようには気を使っています」と説明する。
「ただ、難しいのは、怒る時。失敗した時に直接、言ってきかせて、なるべく尾を引かないようにしています。二つ以上のことを言っても無理だと思っていますし、第一、(頭に)入らない。だから、ここはこうした方がよかったねとか言うように努めています。ただ、怒るといってもねえ。研修医には責任がないですから」と澤村。研修で一週間くらい経つとレベル判断がつくため、「こいつだったらこのくらいやらせてもいいかなとか、段階的にレベルアップできるようには気をつけています」とシビアな面ものぞかせる。

叩けよ、さらば開かれん

人工呼吸器がついた状態の乳児を香港まで送り届けるという国際医療帰省にも携わったほか、2011年3月の東日本大震災で岩手県陸前高田市へ医療支援という形で参加もしている。救急医療とはまた違い、情報収集の難しさや、被災者への対応の難しさを学んだという。
救急医療の世界はそれほど多岐に渡り、ある意味、症例も多くやりがいのある世界でもあると口にする。
「いろんな症例が多種多様な症例が見えることですね。あとは退院した患者さんから手紙とかいただくんですけど、うれしさとかありますね。意識戻らないだろうという人が意識戻って職場復帰したというのも何度かありましたけど。臨場感ですかね。ドラマじゃないですけど」
最近は東野圭吾の小説にハマっているという。昨年の冬、骨折で療養中に初めて手にして以来、「出版されている77冊出のうち75冊は読み終えました」と澤村。すさまじい集中力としかいいようがない。
仕事柄、当直日はあまり眠ることができないが、「睡眠深度が深いせいか、1〜2時間もヨコになれればすっきりしています。すぐに眠れるというのも一つの才能かもしれませんね」と澤村は笑う。

インタビューの最後に、澤村はこれから救急で研修する(しようとする)若き医者に対して、「大きなやりがいがあるので、ぜひ、救急の門を叩いて下さい。そして研修では、興味を持って自分で調べて、あれはどうなんだと指導医を困らせて欲しいですね。何でも聞いて来る人は、それなりに教えがいもありますし、教えたいなと思うような人がいいですよね」と期待を寄せている。