先進急性期医療センター ホーム > 救急医の横顔 > [第5回]早川峰司先生

救急医の横顔

救急医の横顔、第5回目は早川峰司先生にお願いしました。
医局員の中では、北大救急歴が最長の先生です。じっくりとお読みください。

北海道大学病院先進急性期医療センターは、札幌市内の3次救急の一翼を担っているが、実は、その歴史は浅い。同大学医学部で救急医学分野の講座が開講したのが1999年。3次救急の受け入れを始めたのはその翌年。しかし20世紀末の遅出の「船出」と思うなかれ。未来に向けて、急性期管理医学を臨床や研究で積み重ねながら日進月歩、21世紀の世界的リーダー的存在に向けての「航路」を進んでいる。
其処でナンバー3の役割を担っているのが早川峰司先生。若き研修医たちの後進の指導にあたりながら、多数の論文を執筆している。
よく笑い、会話には時折、出身地の音調、抑揚がつくためにかえって親しみを覚える。風貌から一見、ひょうひょうとしたように感じられるが、自他ともに認める仕事人。家で用事がなければ病院に顔を出すほどだ。「ワーカーホーリックですわ」と笑う早川先生は、実は6人の子持ちの子煩悩。
そんな早川先生に救急の魅力を聞いた。

振り出しは麻酔科医

早川先生の写真

早川先生は小説「二十四の瞳」(壷井栄)の舞台、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の出身。中学を卒業すると、対岸の県庁所在地の高松市内の高校に進み、アパートで一人生活をしながら大学を目指した。
高校時代に理工学部か医学部かに進むか、「なんとなく」悩んでいたという早川先生は、大学での理工学部のイメージが掴み辛く、「医学部の方が面白いだろう」ということで北大を受験した。
北大には特段な憧れは無かった。仲のよいクラスメートが北大を受験するというので、「じゃあ、一緒に受けるか」という感じで願書を出したという。動機があるとすれば、自身の成績の範囲内で、なおかつ瀬戸内式な温暖な気候ではなく「雪が積もっているのも見てみたい」という感じだったそうだ。結果はクラスメートが不合格、「僕だけ受かっちゃった」と早川先生は笑う。
ところが医学部に進学したものの、大学時代は正直、まじめな学生ではなかったという。「あんまり授業に出た記憶がないんですよね。まだまだ、古き良き時代でして。大学の授業を出なくても卒業できる時代でして。臨床の授業も実習もほとんど出たこと無かったんですよね・・・。」と大学時代の6年間を回想する。要領がよかったのかもしれない。まじめな友達の助けを借りて、留年もしなかった。6年の歳月はあっという間に流れ、将来、どの方向に進むかの選択の時期がきた。
何となく外科に進もうかなと思っていたある日、麻酔科の勧誘会に顔を出すと、「面白いよ」と呼びかけをしている。「ふーん、そうなの」と言う感じだったが、12月末に麻酔科の医局長から1本の電話がかかってきた。「どう、(うちに)入らない」と切り出されたため、断る訳にもいかず「あっ、ああ入ります」と返答してしまったことから、麻酔科への道を進むことになった。
ところがその麻酔の授業に出た記憶もなければ、今となったら試験さえ受けた記憶も「あやふや」。当然のことながら麻酔の教科書すらも手元になかったという。
早川先生は「働きだす一日前かに友達から譲ってもらった、ということだけはよく覚えている」と思い出し笑いする。
1997年に入局後、早川先生は「実際に麻酔科で働き出したら、ものすごく面白かった」と述懐する。2年目には室蘭市の製鉄記念室蘭病院(旧・新日鉄室蘭総合病院)に医局から派遣されて麻酔科で勤務するが、少しずつ興味の方向が変わってきている自分に気がついた。同病院で救急/集中治療に少し携わったことも要因のようだ。
早川先生は「手術場の麻酔は、安全で終わるのが当たり前。何かあったら一大事という世界なので、刺激が無くなったのかもしれません」と話す。そこで3年目は集中治療ができる病院を希望して、旭川市の旭川厚生病院麻酔科に。しかし、ここで起きた、ある出来事と出会いによって、早川先生は救急医としての進路が運命づけられるのであった。

論文がきっかけで救急医に

早川先生は、この頃から北大病院麻酔科の森本裕二先生(当時、講師、現、教授)の指導で論文を書く機会があった。そのようなつながりで、麻酔科領域で興味を引くことは森本先生に相談していた。
そんなある日、旭川厚生病院に帝王切開の術後の経過が芳しくない女性が転院してきた。敗血症の症状を示していた。本来ならば産婦人科の領域だったのだが、同科だけでは心もとないということで早川先生にも声がかかり、一緒に診療にあたることになった。早川先生はそのとき、敗血症の要因がClostridium difficile関連腸炎から来ているのではないかと思ったという。
その患者の症例報告を書こうと思い立ち、いつものように森本先生に相談したところ、「いや、ちょっともうその辺りになると面倒みきれないから、僕じゃなくて丸藤先生(現・先進急性期医療センター部長、教授)に相談して見るといいよ」とアドバイスを受けた。丸藤先生と森本先生はかつて札幌市立病院救命センターで一緒に釜の飯を食べた旧知の間柄。早川先生は丸藤先生と面識はなかったが、「基本的に図々しいので」と受話器を取って、電話で相談することにした。症例を説明すると丸藤先生は「Clostridium difficile関連腸炎ではなくて、Toxic shock syndrome(TSS)じゃないか。そのうち手足の皮がボロボロとむけてくるから、みててご覧」と指摘された。
当時、TSSの病気の概念を知らなかったため、丸藤教授に言われたように経過観察を続けていると、実際に手足の皮が剥けてくるではないか。正直、早川先生は丸藤教授の診たてに驚いたという。早川先生の言葉をそのまま借りると、「このおっさん、すげえなあ」であった。
今でこそ、よく知られる症例でもあるし、臨床の経験を積んでいくつかのキーワードを重ねるとTSSだと判る。当時は経験不足もあり、残念ながら判別できなかった。
この一件をきっかけに救急医学への興味が増してきたという。また、ちょうどその年に北大医学部で救急医学分野の講座が立ち上がったばかりでもあった。医師4年目として今後、どうするかと思いながら早川先生は丸藤教授に電話をかけて相談してみると、意外に簡単なほど「そう言うんだったら、救急をやってみないか」と誘いを受けたのである。
当時、医師の世界で科を異動することは敷居の高い世界だという。早川先生は「大学病院はデパートではなく商店街のようなもので、『経営』は別個の世界。八百屋さんから洋服屋に移るようなもの」と表現する。しかし幸いなことに、北大の麻酔科と救急科は親戚のようなもので、なおかつ、丸藤教授も元々麻酔科の出身で、その丸藤教授は先代の麻酔科の教授に推されて今の立場にいる。早川先生は麻酔科に「移ります」と挨拶に行った記憶がないほど、あっさりと転科が認められた。

救急医に必要なものは感性と診たてのセンス

誘いを受けて向かった先は札幌市立病院の救命救急センター。そこで3年間、救急の修行を積むことになった。
当時のセンター長からは好きにやらせてもらい、色々と教えてもらったという。そのひとつが救命救急士とのつき合い方。医師4年目のまだ20代後半。かたや現場経験豊富なベテラン。医学的な学問分野はさておき、現場で叩き上げられてきた経験は深く、医者を立てて一歩引いていながらも芯に「救命」という確固たる技や知恵は持っている。診たてについても「違うのではないか」と指摘を受けたこともある。直接言われなくても、救命救急師の患者対応を見ているだけでも勉強になった。
早川先生は「すごいなあと思いましたし、本当に色々と教えてもらいましたね。当時教えてもらったおっちゃんたちには、未だに頭が上がりませんから」と笑う。

救急医療現場での、子供の生と死

そんな早川先生は、救急医としてこれまで印象に残った症例を二つあげてくれた。二例とも子供で、救急医になって間もない頃の話だ。
その一例目。勤務の日に、5歳の男の子が5階にあるマンション自室窓から落ちて救急搬送されてきた。脳外科医と供に初期対応を行い、緊急開頭儒血腫除去を施行することになった。手術にあたり、早川先生は麻酔管理を担当することに。手術を終えてCT検査してみると、別の部位から出血が認められたので再手術にむかった。その術後も万全の状態ではなかったが、できる範囲で最大限のことにあたろうと集中治療室で低体温療法を3日ほど行ったという。一命は取り留めたものの、その男児は頭部にかなりのダメージがあった。意識が戻らず、「植物状態」だったという。気管切開を施されて小児科に引き取ってもらい移床されていった。
それから数ヶ月のち、その男児が早川先生のところに挨拶に来た。歩き方はぎこちなく、言葉も多少不自由さがあったものの、「ありがとうございました」と。当時、救急医としては新人だったため、その男児の搬送されてきた当時の状態が状態だけだっただけに、回復の程度に驚いたというのだ。「今となったら、よくある話だよねって経験として分かりますけどね。その当時は凄いびっくりしましたよ」と早川先生は自分に言い聞かせるようにうなずいた。
もう一つが4歳の女児の例だ。
母親が運転する車に、車庫入れの際に女児が轢かれてしまい救急搬送されてきた。緊急CT検査で、腹腔内出血が認められた。transarterial catheter embolization (TAE)というカテーテルを使った手技での止血が計画され、上級医と供に早川先生は試みた。女児ははじめ会話も可能であった。しかし、みるみる間に調子が悪くなってきた。女児は「水が飲みたい、水が飲みたい」と訴えかけてきたという。早川先生は「もうちょっと我慢しててね。良くなったら飲もうね」と励ましの言葉をかけながらTAEを施行していた。状態は悪化し、TAEから開腹術へ変更したものの、その女児の意識と心拍は永遠に戻ることがなかった。
早川先生は、今にして思えば、助けることができた命だったと確信している。当時は経験も浅く、早川先生に最終的な決定権はなかった。が、もしもあの時別の選択肢をとっていれば、などと後悔の念に近い表情を浮かべた。
先輩医師の判断には、その時は特に大きな間違いがあった訳ではない。しかし、「今の環境や、今の自分のdecision makingだったら、多分ね、普通に助かっていたんですよね。たぶん」と当時を振り返る。そして「難しいですよね、その辺の(治療方針の決定などの)瞬間的な判断って。微妙な所って判断しずらいですよね」と言葉をつないだ。

医者は職人で救急医の診断には「感性」が必要

こうした経験があったからかもしれない。早川先生は、「感性」という言葉をよく使う。また同時に医者を職人と例える。
どういうことか。外科医はよく大工に例えられるが、救急医はどちらかといえばコック(料理人)に近いというのだ。料理作りと一緒で早川先生は「どの程度、鼻(や舌)が効くか。同じ患者を診て同じデータを見ても、気づくか気づかないだけの話なんですよね。何が違うのかを文字にするのは難しいんですけど」と説明する。だからこそ疾患概念をきちんと知った上で、そこから症状等のキーワードを拾い上げていく「感性」が必要になってくるのだという。しかし、それは「勘」ではないと否定する。なにかしらの知識があって、そこに診断・治療へのプロセスの思考回路が働くためだからだ。
そのためには、これまで蓄積された医学的知識から見つかる「証拠」、つまり要因のデータをひとつひとつ拾い上げていかなければならない。救急は一刻一秒争う場面が多いので、当然のことながら脳はフル回転だ。いくら疾病の概念を全て知っていようと、全てのデータを拾い上げようとしても、そこに「感性」がなければ診断の見立てはつかないともいう。そのためにはヒット&エラーもある。だから「感性だけでなく、手間ひまも大事です」と早川先生。

論文は道楽

その感性を早川先生が磨いてこられているのは、論文執筆なのかもしれない。若い頃は症例報告を数多く書いてきた。珍しい症例の経過をまとめ、日本語で書く。早川先生は「これだったら数は書けます」と謙遜する。しかし、そうはいうものの、症例に関する資料や本を数多く読み解いて行かなければならない。「勉強になるので、非常に好きですね」と早川先生は目を細める。論文を書いたからからといって給料があがる訳ではないし、論文を書かなければ教授にはなれないかもしれないが、早川先生は「そういったことには興味がないんですわ」と一笑に付す。
ひとことで言うなれば「道楽」だという。俳句が好きな人が新聞に投稿するように、また写真が好きな人が個展を開くかのようなものと例える。
早川先生は「お金と手間隙をかけた夏休みの自由研究みたいなものです。知的ゲームですね。そういうのが好きなんです。出来上がると、うれしいじゃないですか。それにちょっとでも話題にしてくれると、まあ、うれしいですよね」と続け、だから「変な奴とみられています」と笑った。

救急の魅力はドキドキ感だけではない

早川先生の写真

早川先生にとって救急の魅力はどきどき感だという。「患者さんには失礼きわまりないでしょうけど」と前ふりを置きながら早川先生は「ちょっと判断を間違えると駄目で、やっぱり自分でなければ助けられなかったっていう風に思う瞬間ってあるんですよね。そこで間違っていればダメだったとか、うまくいったとか。逆に言えば、あー、あそこでこうやっておけばなっていうのは、まだありますよ」と説明する。
さらに、救急医が対応する相手は患者だけでなく、医師も含まれるという。身内の他科の医師のみならず他病院の医師の場合だってある。救急で運ばれて、集中治療室に入る患者はなにも、北大の中だけではなく、外の病院からだって運ばれてくることもある。そんな時に「『先生、何とかよろしゅう』って頼ってもらえる存在になれるかもなって、いうところも(救急の)面白さなのかもしれないですね」と早川先生は魅力を付け加えた。