先進急性期医療センター ホーム > 救急医の横顔 > [第6回]佐藤朝之先生

救急医の横顔

救命救急医は、命の「ゴールキーパー」でもある。あらゆる容態の重篤患者が救急車で運ばれてきても、常に「スーパーセーブ」をして当たり前のフィールドに立つ。患者のバイタルサインをチェックして、医師個々人がこれまでに培ってきたスキルと経験を基に、「死というゴール」を防ぎ続けなければならない。
今回、インタビューに応じていただいたのは、医学部を卒業してから市立札幌病院救命救急センターで救急ひとすじの佐藤朝之先生。笑いあり、涙ありのお話を伺った。

弓道男子で建築家志望。気がつけばいつのまにか医者の世界へ

佐藤先生の写真

佐藤先生は、山形県山形市の出身。地元の山形東高校に進学して3年間、弓道部に打ち込んできた。クラブ活動で朝に弓道場で弓をひき、授業後にも弓をひくほど熱中したという。
「遠くの的を狙うのが非常に面白くて、練習しろと言われなくても、ひたすら弓をひいていました」。
弓道に熱中できたのは、たまたま友達との巡り合わせ。「ちょっと弓道部を見てみようと」という誘いにのり、入部したのがきっかけだった。
同じように医者の世界に入るきっかけも友達だったという。
どういうことかというと、高校三年生の時の進路希望は、建築家になるために工学部志望だった。そのため現役時代に受験した大学も首都圏の国立大学の工学部だった。
しかし、残念ながら不合格となってしまったため、山形から隣県の仙台市の予備校に通うことになってしまった。
そんな日々を送るある日、友達が「北大の医学部に行こう」と誘いかけて来たという。
佐藤先生は軽い気持ちで「いいよ」と承諾。この一件を述懐しながら「主体性のない人ですよね」と自嘲する。
模試はD判定ばかりで、医学部合格には厳しいラインどころか、そこまでのレベルにも届いていなかった。
それでも「何となく受かりそうな気がするから、受けてみたら」という予備校の先生の無責任な発言の後押しと、一浪しているとはいえ「ま、医学部受けるのも最初の年だから」という佐藤先生の気楽さもあり北大医学部受験に挑んだ。
結果はこれまでの模試のほぼ絶望的判定を覆して、合格。晴れて北大医学部生となった。
「最初の年の受験で大学に受かっていたら、こういう友達との出会いは無かったのですけど。医者になったことが、運が良かったのかは分かりませんけどね」と佐藤先生は苦笑する 。
大学では迷わず弓道部に入部した。が、医療系学生が全くいない部だったために「やっていけるのか」と心配されたという。
ただでさえ忙しい体育会系クラブ。医学部の勉学もおろそかにできないと思った佐藤先生は、なるべく授業内だけで医学の勉強の始末をつけようと、教室ではいつも前から3番目の正面に陣取った。そして授業は「全部出ました」と話す。
3番目あたりにいると、教授らに「先生、もう一回説明してください」と言い易いそうだ。
それに加え、いつも隣の席には成績優秀なSが座っていた。佐藤先生はわからないことがあればSに授業内容を聞き、ノートに補足していった。学生時代に学業と武道の両方を追いかけることができたのは、Sの存在が欠かせなかったが、残念ながら昨年、鬼籍に入ってしまわれた。
大学の弓道部で5年生まで試合に出て、6年間弓を引き続けてきた。大学2年には弓道4段まで昇段するほど練習に打ち込んできたが、留年することもなく、無事に医師国家試験に合格するこができた。
そして精神科医への道を目指した。

精神科医を目指していたはずが、気がつけば救急医に

医学生の頃から精神科医になろうと思っていたという。
一方で「精神を診るためには身体のことぐらいは分からないとだめだろう」という気持ちがあった。それに付け加え、「先生、大変何です。何とかしてください」と急患が運ばれてきても対応できるくらいになっていなければ医者としてはダメだろうと考えていた。
「その様な研修にうってつけの場所は救急ではないか」と佐藤先生は考え、市立札幌病院の救急の門を叩いた。
卒業したのは1995年春。今のような臨床研修制度はなく、医局に入ることが当たり前の時代だった。
そのため佐藤先生は精神神経科の医局に「戻ってきたら後で入ります。つきましては2年間、(救急で)研修させてください」と直談判することに。「(その後約20年)それっきりになっちゃいましたが」と佐藤先生は笑う。そしてこう続ける。
「臨床研修という制度の時代が、ようやく私に追いついて来たのかな(笑)。当時は自分でこういうスキルが必要じゃないかと思って選んだけど、それは良かったことだったと思う」。
当時の同病院の「救急部」看板は手術室前に掲げられていた。そして救急部の部屋には窓が無く、事務机もひとつしかなかった。閑散とした雰囲気だったという。北大の救急医学講座が立ち上がる5年も前の話だ。
市立札幌病院は今も昔も札幌の3次救急の要。現在、北大の先進急性期医療センターの丸藤哲教授がその当時、中心的に活動をしていたという。
そこで佐藤先生は救急医療の研鑽を積み上げていき、気がつけば20年近く、同じ病院で現場に立ち続けていた。

断らない医療とロジスティックの重要さ

医者になって10年目の2004年、佐藤先生は2ヶ月間、ノースカロライナ大学でヴィジティングレジデンスとしてER型の救急医療を学んだこともある。医療行為自体より佐藤先生は、ここでロジスティックの大切さを感じたという。
「ER型のメッカで、もっともERらしさを見せていただきました。医療の質自体は何でもなくて、自分の方ができるなと思ったほどです」と佐藤先生。
大きく違っていたのは、学生がいて、研修医がいて、研修医を指導する若手の医者がいた。患者を断らずに受け入れ、なおかつ研修医を育てるシステムが出来上がっていたというのだ。
「仕事が明確になっていて、何を知らなければいけないとか、何を考えなければいけないとかのメニューが全部固まっていた。どんな患者がいつやってきて、どんな手技が必要とされたかなどの統計がどんどん取られていき、次の対処のための検討が重ねられていたからではないか」と佐藤先生は述懐する。
日本の救急医療の現場はフロントラインの医者の頑張りにかかっている。個々の医者の能力は決して米国と比べてひけをとらないが、ロジスティックがない部分、長続きはしにくい。システムではなく、マンパワーだけに頼っていると、どうしても医療を断る場面がでてきてしまう。
だから断らない医療で重要なことは「出口(というシステム)を考えること」と佐藤先生は指摘し、「そのためには専門診療の医者を助けるための医療部門が必要」と長年訴えてきた。その甲斐もあり2014年6月に臨床研修センターがついに開所され、そこでは新人医師が研修を積みつつ専門医の手助けが期待されている。
市立札幌病院は大学病院に近く、専門医が多く在籍している。そのために研修医は専門性が高くて診療しづらいところがあるという。
しかし研修医が診療の中に入っていかなければ、研修医は伸びない。
そこで、断らない医療と研修の二つをくっつけるためにセンターの構想を思いついたというのだ。
「専門医が手術とか外来とかで忙しい間、もし入院患者さんが悪くなったら私たち(センターの研修医ら)で診ることができるし、外来時間後にやってきた患者さんたちも診ることができる」と佐藤先生。そうすることで病院内の問題とかに対応する訓練にもなり、院内の忙しい先生たちの助けにもなる。院内の助けになるということは、すなわちフロントラインのバックアップができるということで、これが「断らない医療」につながるのではないかと佐藤先生は目論んでいる。

救急の世界では「病名で覚えず、病態を想像」

上記の文章は佐藤先生がよく使う言葉だ。
テストでは症例などの机上の考察から病名を書かなくてはならないが、救急の現場ではあらゆる病態の患者を診なくてはならない。
「しかし実際の臨床には名前がない。熱が出たから肺炎ですとか腸炎ですとかではなく、何かが炎症を起こしているから熱が出ているのであって、その炎症を起こしているもとは何だろうかという風に、その病態は何が原因で起きているのかを考えないと」と救命救急士や研修医を相手によく話すという。
現場は生もので、典型例が少ない。病名という言葉にしてしまうと、原因が「限定」されてしまうおそれがあるためだという。
「つかみ損ねるというか、見逃してしまいやすい。誤解してしまう」ために、ことある機会のたびに佐藤先生は口にしているのだという。
佐藤先生が精神科医を目指そうとしたのは、「なぜに自分の気持ちがそのように動くのかが知りたい」と思ったからであり、そのための理由と機序への探求からで、それは救急医療においても通じるところがある。

印象に残った症例

これまでに接した患者の記憶の糸を引っ張り出しながら、佐藤先生は「悪い記憶ばかり」と顔を曇らせる。もちろん悪い記憶ばかりではないが、中でも印象的だったのが、交通事故で頸椎損傷により障害者になってしまった女の子の記憶だという。
首の骨が折れて、手がちょっとしか動かない。佐藤先生は「治療のゴールは世の中の人の役になるようになること」という思いがある。
そのために治療後の最初のエンドゴールを携帯電話で文字が打てるようになるように励まし続けることだった。携帯電話だと指1本だけで文字が打てるからだった。そこから先の希望があると感じたからだという。
その女子は300日くらい入院していて、途中で唾液漏という症状にも陥った。佐藤先生は、食道がんを専門に行っている恵佑会札幌病院なら治療方法を知っているかもしれないと、アポ無しで「食道なんかのトラブルケースで詳しい先生はいませんか」と同病院を訪れて治療方法を教えてもらったことも。
その女子は数年前に車の運転免許を取れるまで快復していたそうだ。
佐藤先生は「すごいなあと思います。同じことなんか私にはできない」と時折、目頭を熱くしながら思い出を語った。

「死ぬのも大変だな」という父の言葉

救急で運ばれて来た患者は誰であろうと助ける使命がある。特に3次救急指定の病院の場合は、多くは心肺停止状態で運ばれてくる。その場合、助かっても植物状態になる可能性が高い。
今の救急医学では死なせないこと、心臓を止めないことは一昔に比べると容易にはなってきている。救急で運ばれてくる患者の多くは高齢者という実態もあり、さらには2030年頃には団塊の世代が後期高齢者となる。
佐藤先生は「心臓がすり切れるまで生かし続けることは、果たして正しいことなのだろうかと思うこともある」と現実の厳しさを口にする。
この問題は、ものすごく慎重にならなければならないし、不用意にここで文章にしてしまうこと自体、大きな波紋を呼んでしまうかもしれない。
だから佐藤先生も「このような話をすると、(治療を)投げちゃえという風な、年寄りだからいいですよね、みたいな話を言い出す人もいるけど、そこは慎重に考えなくてはならない」と釘を刺す。
高齢者の多くは身体疾患を抱えており、今の医療体制で診ていくと医療費が莫大にかかり、将来的に医療保険制度に相当な圧迫がかかってくる。
佐藤先生の父親が、食が細くなって寝たきりの状態になりかけたとき、「そんなに食べないと脱水になる」と思い、病院にかけあって点滴をしてもらったことがあるというのだ。
結果、肺に水が溜まり「死ぬもの大変だな」と父に言わせてしまった。死なさないことはできるが、死ぬべき時に死なないと、死ぬのが大変になる、と感じたという。
それでも「助かる人を助けるというのが、私たちのメインの仕事だと思っています」と佐藤先生は話す。
副次的にありとあらゆる死なせない、生命をつなぐ技術が救急医にはある。意識無く生命維持装置を使って寝たきりになるだろうと分かっている患者の家族に、「どうしますか? 全部やれるだけやりますか? わかりましたという風ではなく、(その技術を駆使できる救急医が)患者の人生を短時間に受け止めて、考えなくてはならない。周りの人は生き続けて欲しいと思うが、どこかでその人の人生を祝福して、もういいじゃないですか。お疲れさまでした、と誰かがいえないとよくないのかもしれません」と佐藤先生。そしてこうした考え自体、今のコンセンサスの無い世の中では「危険ですけど」と自覚している。

救急の醍醐味は、弓道に通じる一面も

救急の面白さは「次にどんな人が来るのか分からない。そのとき、その場にいる人が頭を使って、何とかしなければならない」ということではないかと佐藤先生は話す。
逆に言うと「ルーチンワークが苦手なんですね」と苦笑する。
そして得意な弓道と救急があい通じている一面があるという。
佐藤先生は「プロセスを重要にするところが似ているのかもしれませんね。もっとも救急の場合、プロセスが正しくても、思ったような結果がでないこともあるわけで、結果をエンドポイントにしてしまうと、評価という部分で結果が馴染まないところがある。治った患者さんの笑顔がいいに決まっているけど、聞こえは悪いかもしれないけど、一生懸命やっている仲間と、思ったようなプロセスを踏めた時に一番、救急の醍醐味を感じます」。
今は救急医という言葉や資格にこだわらないとも話す。
「医者でいいやと。あなたは何ですかと聞かれると、医者ですと。昔は救急でも、何科ですかと聞かれると憤ったことがありますが、自分の守備範囲で目の前の問題を全部やりますよということなので、最近は本当にお医者さんという(呼称で)いいや」と感じている。
それは救急医だろうが、別の専門医だろうが同じことで、スキルを総動員して、目の前の患者に対応することには変りがないからなのだろう。

研修医へ贈る言葉

佐藤先生の写真

佐藤先生は研修医が来ると、歓迎コンパを行っているという佐藤先生は、その宴席で必ず、研修生を諭す話がある。
それは「目上の患者さんには敬語を使いましょう」という話だ。特に医療者言葉で話かけることには、快く思っていない。
そして、分からないことがあれば、教えて下さいという姿勢が大事だという。ソクラテスではないが、「無知の知」の重要性も医者として必要と感じているために、「自分で分からないことを見つけられる人になろうよ」と佐藤先生は話している。