先進急性期医療センター ホーム > 救急医の横顔 > [第10回]和田剛志先生

救急医の横顔

和田先生の写真

今回のインタビュー前に、和田先生の授業に少し立ち会う機会をえた。和田先生がホワイトボードにSHOCK、ABCDE、FASTの頭文字を書き込んでいく。7人の学生を対象にJATEC(外傷初期診療ガイドライン日本版)のプライマリー・サーベイの診断などの手順を示す重要なキーワードを教えている様子だ。そしてそのキーワードを身振り手振りで症状を示しながら気道(airway)のAとか呼吸(breathing)のBとかを書き込んで、要点を分かりやすく解説していく。途中で何回も笑いを掴む場面も。時には和田先生が患者を演じる。転んで頭を強打して、自力で病院に来たという設定にして、一人芝居のように腕の収縮具合などを学生に示しながら、何の外傷の可能性があるかを考えさせたりもする。
それはあたかも「総合診療医ドクターG」というNHKの番組のようだ。現役医師が実際に関わった症例をドラマ再現して、研修医がその病名をあてて、どのような初療を行うのが適切かなどを問うもので、今や人気番組の一つで、実際に医学生や研修医も見ているという。
授業では決して偉ぶれた態度は示さない。むしろその逆で、笑顔の明るい声で振る舞い親近感を感じさせる。
そんな和田先生に、授業後、お話をうかがった。

脳外科医を志したが救急研修で進路を変更

単刀直入に救急医療は面白いですか?と質問すると、何の躊躇もなく「面白いですね」と和田先生が答える。
面白さとは何か?和田先生が話を続ける。
「(救急医療に)非常に多くの経験を持っている先生ですら(今も)面白いとやっているものは面白いだろうなと思うことがあります」と消極的な意見を述べた後に、さらに言葉が続いた。
「今まで勉強してきて分かったことが全く通用しないで、『な、何なんだこれは』っていう新しい症状に出会うことですかね。多くは症例もパターン化されているけれど、経験したことも、理解もできない病態が必ず生じてきます」
救急は症例の百貨店とも言われる。毎回、搬送されてくる患者の容態が違い、知識と経験だけでは患者を救うことが難しい世界だ。知識と経験に裏打ちされた治療と診断の「想像力」と「決断」が追加要求される、オールラウンドプレーヤーであり続けなければならない。
和田先生は医者となってまる10年だが、もともと救急を志望していたわけではなかったという。
「そもそも僕は脳外科医になろうと決めていました」
脳外科医にかっこ良く仲のよい先輩がいたことと、手術のできる医者への憧れもあったそうだが、もう一つ大きな決め手は全身管理ができるのが脳外科医だと思っていたからだ。
ところが初期臨床研修で現場を経験してみると、脳外科は自分が思い描いていた世界とはかけ離れていた。
「手術にかなり特化しているんですけど、まあ、当たり前ですね。なんか、こう色々なことができると思っていたのでけど、そういうのが全然なくて」と和田先生は説明する。
手先がさほど器用とは思っていなかったことに加え、「面白いと思えないことを一生やっていけるのか」と思い悩んだという。
「これでいいのか?」
6ヶ月の研修予定を3ヶ月に短縮してもらうことにして、門を叩いた先が血液内科。ある意味、脳外科とは対極にある診療科だったが、自科で完結できることに加え、骨髄移植とか劇的に治ったりする治療もできるために面白さを実感したという。
よし、それならば血液内科医になろうと思い直したが、元々予定に入れていた次の救急の研修を受けることで、自身の針路の舵が大きく切られることになった。

それはたった1本の管だった

和田先生は術懐する。
救急の研修に入って間もなく、当直の深夜、看護師さんから電話で呼ばれた。担当ベッドの患者さんの容態が悪くなり、突然、呼吸が乱れ出したというのだ。
深刻な頭部外傷を負った患者だった。「頭だけのはずなのに、何で胸のことが起きるんだ。おかしいな、おかしいな」とああでもない、こうでもない治療を続けていたが、一向に患者の容態は良くならない。治療の手詰まりを感じ始めていた矢先、早川峰司医師が突然に現れ「胸に血が溜まっているんじゃないですかねえ」とぼそっとささやき、そしてまたいなくなってしまった。
頭部外傷なのに、何で血胸がおきるのだろうか?半信半疑ながらエコー検査を施すと、確かに胸腔内に血がたくさん溜まっている。
「おおっー、おおーっ。何でそんなことが分かったんだ」とまず驚き、いそぎ当直時の上級医を呼んで血胸の件を伝えると「ああ、そうだな」と血抜きをするために胸腔ドレーンを胸に刺した。
その瞬間、堰を切ったかのように血が噴き出してきた。と同時に呼吸とか血圧がみるみるうちに「うわーっ」と感嘆するほど快復していったのだった。
和田先生の、研修医時代の印象に残る症例が、そのまま救急医への道に誘われる形になった。
「今にして思えば、頭部外傷って非常に全身の出血傾向が著明になるんで、ま、最初は軽微だった胸の外傷が顕在化して血胸が溜まったんでしょうね。今だったら非常に理解できるんですけども。まあ、そういう頭部の外傷が、他のところにも影響する。そういう体の反応ってなんか面白いなと思ったし、胸腔ドレーンを入れることって別に救急医でなくてもできることかもしれないけど、自信を持ってできるかと言われると、当時僕はそれ、自信がなかったし、そういうことがまずできる医者になりたいな」
こうして和田先生は、救急の専門医を踏み出す決意を固めたのだった。

日本医科大学付属病院高度救命救急センターへ「武者修行」

和田先生は、北大の救急で3年、救急医として研鑽を磨いた後、救急医療の草分け的存在の、日本医科大学付属病院の高度救命救急センターに2年間研修に出た。
和田先生は、あるジレンマを感じていたのだった。それは手技をもっと高めたいという欲求だった。
北大の救急はICUとかでじっくり患者と接し、診ることはできる。それは救急医として満足のいくことでもあったが、和田先生は止血とか最低限の手技に自信をもって対応できていない自分にいらだちとは違う、もっと違う次元での感情を抱えていた。
「外科的なスキルもある程度あったらいいなあ」
救急医になった3年目の春頃からそうした思いが深まり、この1年を過ごした後の身の降り方を考えていたという。
そうしたときに、たまたま日本医科大学の先生と話をする機会があり、同大学付属病院の高度救命救急センターでは、脳外科の手術を受け持っていることも聞いた。センターにいながらにして脳外科の専門医トレーニングにもカウントされるというのだ。
和田先生は「脳外科をすごくやりたいと思っていたわけではなかったのですが、外科的なスキルをという観点で救急をやりながら、ましてや脳外科の専門医もとれたらそれはすごいなと欲張りに思って」と苦笑しながら話を続ける。「(医局に3年いたので)出ていかなくてはならないなあと思ったのが、ちょうどいいタイミングだったもので」といきさつを説明した。
日医では、重症患者の初療、その後の集中治療に加え必要があれば手術も自分たちで行った。小さい手術から大きな手術、執刀、助手すべて合わせて1年間で100件ほどの手術に参加した。
「手術してなんぼなんですよ。手術が好きな人の集まりなんですよ」
決して否定をした口調ではない。
1年間の緊急手術数だけで700件を超える日医の高度救命救急センター。毎日、2件ほどの手術をこなさなくてはならなかった。「経験の数だけ医師は育ち、医療医術は高まる」と同センターのホームページに書かれているが、まさにその通りである。
和田先生もだからこそ、2年間の外での「武者修行」で「外科的なスキルはもちろんのこと。開頭して血を止めたりすることくらいは自分でもできるようになりました。」と話す。
経験もさることながら、人脈を広げられたことも日医大での修行が功を奏したともいう。その人脈で救急医に欠かせないJATECの教科書改訂に加わったりもした。

大事に至る前に収束させるのが救急の仕事

臨床の現場に全て通じるものだが、酷い病態になる前に食い止めるのが救急医の仕事だと和田先生は確信している。当たり前の話すぎるために、救急患者を助けることは、ファインプレーと思われにくい。
和田先生は「見る人が見れば分かりますが、でも、それで僕は全然いいと思います」と話す。
だからこそ救急医学の目指す像は、「生体反応を突き詰めるところ」と和田先生は力を込める。
救急の研究対象は「すでに研究が終わってしまっている分野に立ち返って、また取り出してやっていることに非常に興味があるんです」と和田先生は話し、言葉を紡いでいく。
「些細なことで、例えば白血球とか炎症とか血小板とかは、素人でも誰だって知っている言葉です。それを細かく研究っていうのは、20年前以上に終わったことかもしれないですけども、僕らの救急分野って、そこにもっとやることがある。そういうものこそが、自分の体にダメージを与えているんだよねっていうことなんです」
生体反応は、多くの場合、自分の体を守るために起こる反応であり、どんな反応でも自分にとって良いものだが、何かの線を超えると悪影響を生じさせるのだという。
「その線って何だろう?それを突き詰めたい」と和田先生は思い、「そういうところに自分の身を置きたい」と考えている。
人は何故死ぬのか?この世の中に生命を維持する最先端の機械もありサポート体制は万全なのに人は死ぬ。「最期は血が止まるかばい菌にやっつけられると死んでしまう」という恩師の教えもある。
和田先生は「もっともその通りだと思います。だからこそ、それに至る前に何とかできないんだろうかというのをやるのが救急医です」
そのために和田先生が着目しているのは、血管新生関連因子だという。癌の患者でも救急の患者でも悪さをしていると指摘する。
「人の死は、最期は同じところで収束するのかな。癌で死ぬとか、感染症で死ぬとか」と和田先生は感じているようだ。

記憶に残る患者は担当医であったにも関わらず、最期を看取れなかったお婆さん

医師になって3年目の1月1日。和田先生は年末から正月にかけて当直当番だった。年明け早々に、86歳の一人暮らしのおばあさんが救急搬送されてきた。先に旅立たれた連れ合いの仏壇のローソクに火を灯して、新年の挨拶をしようとしたところ、衣服に燃え広がり広範囲熱傷で運ばれてきたのだという。
非常に重篤で、場合によってはそのまま治療を中止してお看取りする可能性もあったが、北大の救急医療のチームは、助かりそうも無いから撤退することを善としない。
高齢ということもあり、手術で植皮してもすぐに皮膚がずり落ちてしまう。
そのうち、治療に関わった別の科の医師から「こんなにやって、86歳の人を助けて何になるのか」と皮肉られようになったという。極めつけは治療中に脱糞されて、別科の医師が「先生、けつの穴を縫ってもいいですか」と最大限の嫌みを投げかけられた。
その嫌みや皮肉にも負けること無く、毎日、毎日、洗浄して治療を続けていくと、3ヶ月後には少し、患者の容態が持ち直し始めた。劇的に良くなったというよりは、何となく容態が安定してきたというところだった。
和田先生は、春休みをもらい北海道網走市の実家に戻ろうと札幌から雪がまだ残る道を車で走らせた。6時間ほどかけて故郷に戻った瞬間に病院から「亡くなった」という連絡をもらった。
病院外に出ると、よほどのことがないかぎりそのような連絡をしないのが暗黙の了解になっていたという。しかし、和田先生が一生懸命に治療をし続けていたことを知っていたスタッフが連絡してくれたのだった。
最期を看取ってあげられないことを後悔したため、一路、札幌に戻ろうとしたが母親から「事故にでもあったら、その患者さんも悲しむだろうから、止めなさい」と諭されたという。
他科の先生からも絶縁されたり、嫌みを言われ続けられたりする中で、続けたおばあちゃんの治療は、和田先生の医者としての力にもなり、勉強にもなった。
「なのに最期、お看取りが出来なかったというのは痛恨でしたね」と和田先生は目を赤くしながら思い出話を続けた。
「あの人は、今でも名前も覚えているし、印象深い患者さんでした」。

後輩へのメッセージ
20年後の自分の姿を想像するよりも、今を大切に

和田先生の写真

「僕が、救急がいいなあと思うのは、決まった形の救急医というのがないので、好きなようにアレンジできるということですね。やりながらこれが面白いと思ったらそれをやればよくて、特にうちの医局はそれをバックアップします。
決まった線のレールを引かないので。多分、大学院に入らなくてもいいと言っているのは救急くらいです。
自分が何かやりたいと思うことに対するバックアップというのは非常に恵まれています。ものすごく恵まれています。お金のことも含めてですね。僕は最大限に活かさせてもらって、本当にいいようにやらせてもらいました。
研修医によくいいますけども、『救急に興味ある』といってもやらない。その理由は大変そうだからとか、20年後に当直している自分を想像できないとかのようです。
確かに救急は医局としての歴史も浅い。将来どのようになるのか。センター長になりますよとか、像がないのは確かです。
でもそんなこと、今、考えてもしょうがない。実際に、10年前の自分は今の自分を想像していないので、その時に思ったことをやって、やっていく中で自分が次に進めばいいのです。
今、救急をやりたいとおもったら、20年後のことを考えなくてやればいいんじゃないかと。自分はそうやってきて、幸いに自分としては納得してやっているので、皆さんにもやって欲しいと思っています」