先進急性期医療センター ホーム > 救急医の横顔 > [第11回]大城あき子先生

救急医の横顔

大城先生の写真

今回、ご紹介する大城あき子先生は手稲渓仁会病院救急救命センターの救急医です。
同病院は3次指定の病院ながら1次、2次の患者も受け入れるER型救急で、救急搬送だけで年間4,000件超。ドクターヘリの基地病院にも指定されていて、札幌の救急医療に最大貢献している中核病院のひとつになっています。超多忙な医療を支える救急医は全部で10人。大城先生はその中で主任医として現場に立ち続け、後進の指導にもあたっています。
今では北海道の女性救急医として、実績・経験で3本の指に入ると言われている大城先生ですが、実は医療とは全く無関係の分野から転進して医者になられました。

プログラマーから一念発起して医の道に

大城先生は医者になる前は、銀行のコンピュータシステムを開発したりするプログラマーだった。
大学は上智大学法学部で、それまでは文系コースをひたすら歩んで来たという。ところが大城先生は「何か自分に(文系が)合わないな」と感じていたため、就職時に「手に職を付けたい」との思いもあり理数系の仕事に就いたのだった。
世はバブル経済時代。仕事は順調だったが、数年後に「バブル」がはじけた。
転職をしたいなと考え始めた。そんなある日のこと。知人との会話で「社会人をやっていたけど医者になった女の人がいる」ということを知った。
「そういう手があったか」と思った大城先生は、一大決心することに。
当時、苫小牧に転勤していた親に「居候させて下さい」と頼み込み、長く住み慣れた東京を離れ、受験勉強に勤しむこととなった。期限は一年間。つまりたった一回だけの医学部受験に懸けた。
「一年間で無理だったら、他の道を考えよう」と大城先生は、受験科目の基礎から勉強し直した。予備校に通うお金の余裕はなかったので、全ては自習。
大城先生は「因数分解何だっけ? そこから勉強するわけですよ」と昔を振り返りながら笑う。
しかし、模擬試験の判定はE判定(一番低いランク)。最高でもD判定だったという。
「無理かな」という言葉が頭をよぎる。が大城先生には後がない。この一回に医学部受験の勝負をかけなくてはならなかっただけに、最後まで諦めるわけにはいかない。受験勉強の手を休めることはなかった。
努力したからといって必ず結果に報われるわけではないが、大城先生は無事に札幌医大合格を果たし、医の道への「通行手形」を得た。

救急への道は「じゃんけん」がきっかけの「記念研修」

医大を卒業した大城先生は、北海道大学付属病院第3内科に入局した。
実は医者を志すならば、ホスピス、緩和ケア医療の道に進みたいと思っていたが、当時、緩和ケアの医療を学べる病院は少なく、「内科をまず勉強してから」という気持ちで入局先を選んだのだった。
ホスピスへの興味は、上智大学時代の授業。哲学の一般教養で「死の哲学」と出会ったことが大きかったという。「死の哲学」を知ろうと、キューブラ=ロスの「死ぬ瞬間」を読んだりした。だから医者になった当時、大城先生は救急医になろうと思ったことはなく「まったく別世界で考えていなかった」と話す。
他にも理由はあった。他の同期の医師と比べて歳が上で、休む間もなく働くというイメージの救急では体力的にも持たないと感じていたからだ。
今の研修制度とは違い、救急は必修ではなかった。2年間の研修も努力目標とされていた。
当時の北大付属病院第3内科では、3ヶ月外科、3ヶ月麻酔・救急の研修を受けて、あとは医局の中で研修を受ければ良いことになっていた。大城先生は「3ヶ月期間限定ならできるかも」と思い、記念という感覚で札幌市立病院の救命救急センターでの研修を希望することにした。
同センターにしたのは、救急に力を入れていることを大城先生が学生時代から知っていたためだったという。ところが北大の内科研修医も多くが同センターを希望していたため、じゃんけん方式で行けるか行けないかを仲間内で決めたという。
果たして大城先生はじゃんけんに勝ち、たっての希望とおり、札幌市立病院の救急で研修を受けられることになった。
じゃんけんもさることながら、ここで北大の救急医、早川峰司先生との出会いは志望進路の舵が大きく切られることになった。早川先生と机が隣同士だったこともあり、ことあるたびに「救急に来ないか」と勧誘されたのだった。「私はそんなに向いているとは考えていなかった」と大城先生は最初、誘いをまともに取り合わなかった。ところが3ヶ月限定としていた救急の研修をしてみると、「24時間働くこともできる」と気がついた。
「早川先生も『やってみたら』と言っているし…」
大城先生の気持ちは大きく揺れ動いた。
当時は大学病院の研修医の給与水準が低かったために、多くの研修医は夜勤などのアルバイトをして生活費を稼ぐというのが日常だった。(余談になるが、こうした問題もあり、現在の2年間の必修初期臨床研修医制度ができた)夜勤アルバイトで大城先生は、「一、二年目のペーペーで対応ができなくて、こんなんで医者といっていいのか」と思う場面に何度も遭い、「一人でもどんなところでも何とかできるような医者でなければダメなのではないか」とより考えるようになった。手技も途中で取り上げられることもしばしばあった。
そんな気持ちも後押ししたのか、救急の研修をもう一ヶ月延ばして行い、救急の専門医を目指すことにしたのだった。

これはあやしい、と見極められる瞬間が救急の醍醐味

手稲渓仁会病院には年間、4,000件以上の患者が救急搬送されてくる。新型救命救急センターとして、軽症から重体までのあらゆる症状の患者が運ばれてくる。救急車で来ても歩いて帰れる人が半分くらいいる一方で、何割かは3次救急レベルの人が混じっているのだという。3次指定医療機関の北大病院や市立札幌病院のように、最初から重篤な患者だけが搬送されてこない代わりに、救急隊が現場でセレクトしきれなかった「あやしい」重篤患者が混じるためだ。
そのため大城先生は救急隊からの電話で伝えられる状態を重視する。
「これはあやしいかなと考えるように」
大城先生は「それが分かってくるようになってくるのが、(救急の)醍醐味みたい」と話す。
経験値もあるかもしれないが、「ホットラインの内容で、おかしいというのがちょっと分かったりするんですよね。あと、患者さんを診た瞬間の、最初のファーストインプレッションで」と大城先生。「だから思った通りの結果が出た時にはすごくうれしいです」
そのための心がけとして、運ばれて来た直後の患者さんは、研修医任せにせず自身で直接診ることにしているという。そして大丈夫そうだとわかったら、研修医に「時間をかけて診てもいいから」という感じで任せているというのだ。
目指すべく救急医像は、「あまり考えたことがない」と大城先生は話し、こう続ける。
「本当であれば知識もあって、技もあって、人格もあって、というのが理想なのでしょうけど、自分には到底、無理だな」

毎年、患者から贈られる陶器とスキー外傷予防のヘルメット啓蒙

印象に残る症例を質問すると、大城先生は2例の患者をあげた。
交通事故で6ヶ月間治療に関わった男性患者と、スキーで頭部外傷を負い亡くなった女性患者だった。
交通事故の男性のケースは北大で救急医になってしばらくしてのこと。男性は事故で腸管損傷を起こし、それがもとで多臓器不全に陥り、ICUで長らく死線をさまようことに。大城先生は家族にいつも厳しい容態であることを話さなければならかったが、最終的には男性は意識を取り戻し、社会復帰できるようになり退院した。
それまでの道のりは6ヶ月ほどかかったという。救急では普通、ながく患者と関わったとしても1ヶ月ほどで、合併症を併発したために長期で診ることとなった。
「多くの患者さんは、短期間で他に移っちゃうことが多いので、忘れ去られるんですよ。覚えてもらえないことが多くて。でもこの男性の場合のように長く覚えているということは、普通はないです。ICUを出て、一般病棟に入ったのですが、救急も外科の先生と診ていたんですけども。ちょっと色々あって、6ヶ月間診ることになっちゃたんですけども」と大城先生。
この男性、賞をとるほどの陶芸の腕前で、大城先生は「趣味の陶芸ができるといいですね」と入院中に励まし続けた。すると退院後、毎年、大城先生にはその男性から自作のコーヒーカップなどの陶器が贈られるようになったというのだ。
最初に受け取った陶器は、体が思うように動かなかったせいもあり、あまりよい出来映えではなかったが、年々、その腕は元に戻り、今では目を見張るような陶器が贈られてきて、この患者との交流は今でも続いているそうだ。

もうひとつの事例は渓仁会病院でのできごと。
ニセコのスキー場で頭部に外傷を負った女性患者がドクターヘリで搬送されてきたことがあった。頭部がひび割れて、髄液まで流れ出す大事故。ヘリが到着する直前までは心拍は動いていたが、着いた途端にCPAに陥り、その後の蘇生の甲斐もなく息を吹き返すことはなかった。
大城先生は、最近のバイク事故ではみられなくなったような頭部外傷がスキーで起こることに驚きを禁じ得なかったという。
「ヘルメットをしていたらもしかして、どうだったんだろうか?」と大城先生は、このケースをきっかけとして、スキーの外傷とヘルメット着用率の調査を始めることに。頭部外傷を負った患者から啓蒙もかねて「ヘルメット被っていましたか」などを質問しながら、外傷の度合いなどのデータを地道に集めた。その成果を2回ほど救急医学会の方でも発表もしてきた。最近では、2015年秋の東京で開かれた第43回日本救急医学会総会・学術集会で「スキー・スノーボード中のヘルメット装着と頭部外傷」と題して発表された。
大城先生はここ数年、スキー用品店でスキー用ヘルメットが増えている印象を持っている。
「私が何かをしていたわけではないのですけども」と大城先生は前置きして、「世の流れがヘルメット着用に向かっているので、まあ、いいかな」と目を細める。ヘルメットをかぶっていれば助けられたかもしれない命。蘇生をやめる旨を家族に伝えなければならなかった無念な思い。
「私自身が、それを忘れられなくて、みんなヘルメットを被っていればいいのに、とその時から思うようになった」と大城先生は心情を吐露した。

ドクターヘリあれこれ

手稲渓仁会病院はドクターヘリの基地病院として機能しているために、救急医はドクターヘリの当番がある。当番の日は救急外来で日々の治療をしながら待機するのだという。
大城先生は、ここ1、2年ほどドクターヘリに搭乗していないが、月に6回ほど北は留萌、東は帯広、南は日高方面と空飛ぶ救急医として活躍した。ドクターヘリの醍醐味は「いろんな現場に行ってしまうこと」。時には降り立ったヘリポートから直接、救出現場まで消防の赤車で急行することもある。時には生ゴミ処理場の事故現場では体中に悪臭が染み込む。時にはトンネル内の事故現場では救助隊員と共に最前線まで突っ込まなければならない。
決して華やかさだけが空飛ぶ救急医のイメージだけではない。その場で死亡確認となり、命を救うことすらできない無念さに出会うことも多いという。
最近はテレビドラマでドクターヘリの救急医が描かれたこともあったためか、若い人たちに人気があり、乗りたがる救急医は多い。そのために大城先生は、若い人たちに機会を譲ることにしているそうだが、内実はヘリ酔いが激しく辛いためだという。

救急医は自分だけの力だけで患者を良くしているわけではない

「意識が無くなった患者さんが意識を取り戻して、以前と同じようなレベルに戻って帰られるのを見送った時には、よかったな」と大城先生は救急の面白さを伝える。それは自分の力だけで良くなったわけではなく、「患者さんの力なのかなあ」と、これまでの救急医と違う言葉を大城先生は口にする。
「自分がどこまで関わったか。その人の、いろんなリレーがある。例えば、すぐそばで心臓マッサージをしてくれた人がいて、通報してくれた人がいて、救急隊が着いて、全部うまくいって。その中の一環に自分がいると思うので。自分だけの力だけだといつも思わないんですよね。その人が良くなる、良くなったねという一環の中に自分がいれてもらえ、それに関われた喜びというものがあると思うんですよね」と大城先生。

救急医を目指す若手医師へのメッセージ

北大にいた時には、私みたいな人が働いていて、こんな人ができるんだと救急に入ってくれたような人がいました。
あんまり敷居を高くせず、興味があったらチャレンジでもしたらいいのではないかと思っています。みんなヘリに乗りたいとか、救急ってカッコイイとか意識はあると思います。中には、もう少し専門性があると思って、他の科を選ぶ人が多いです。けれども救急も一つの専門性のある科だっていうことをぜひ、見てもらい選んでもらいたいですね。
一つの専門性のある科だと考えていただけたらなあ、と希望しています。